Profile プロフィール

辻口 博啓

Hironobu Tsujiguchi

クープ・ド・モンドをはじめ世界大会に日本代表として出場し、数々の優勝経験を持つ。サロン・デュ・ショコラ・パリで発表されるショコラ品評会においては、 2013年~2015年の3年連続で最高評価を獲得。さらに2015年、国際的なチョコレートの大会「インターナショナルチョコレートアワード世界大会」のチョコレートバー部門で、金賞を受賞。

モンサンクレール(東京・自由が丘)をはじめ、コンセプトの異なる12ブランドを展開。2014年には初の海外店舗「モンサンクレール ソウル」をオープン。素材にこだわり、スイーツで地域振興を行うほか、砂糖不使用のチョコレートなど健康に配慮したスイーツを開発する。

各店舗の製造・運営の他、企業とのコラボレーションやプロデュース、講演や著書出版など積極的に活動。お菓子教室「スーパースイーツスクール 自由が丘校」、
後進育成のための「スーパースイーツ製菓専門学校」(石川県)両校の校長を務める。

一般社団法人日本スイーツ協会代表理事を務め、スイーツを日本の文化にすべく、「スイーツコンシェルジュ検定」を実施、お菓子作りを通して人を育てる「スイーツ育」を提唱する。2015年3月スタートのNHK朝の連続テレビ小説「まれ」では製菓指導を務める。

石川県観光大使。三重県観光大使。金沢大学非常勤講師。産業能率大学客員教授。

http://www.super-sweets.jp/

辻口博啓
辻口博啓にとってスイーツとは?

和菓子屋の三代目が
世界一のパティシエになった理由


僕は石川県七尾市の和菓子屋「紅屋」の三代目として生まれました。和菓子屋の跡取りであるはずの僕がなぜフランス菓子を作るパティシエになったのか。そのきっかけは、小学校3年生のとき友達の誕生日会で初めて食べたショートケーキでした。そのおいしさに衝撃を受け、「自分もこんなおいしいケーキを作れるようになりたい」と思ったのが、パティシエ辻口博啓の始まりです。

僕には忘れられない日があります。それは1998年3月20日、自由が丘にパティスリー「モンサンクレール」がオープンした日です。パティシエを目指して修行を始めた頃の初任給は4万5000円。なかなか道が開けず、「自分の店を持つことなんて本当にできるのかな……」と疑心暗鬼になったこともありました。そんな死に物狂いでもがき続けた10年を経て、ようやく開業にこぎ着けた初日。その日もずっと厨房でお菓子を作り続けていたのですが、たまたま店頭に出たとき目が合った帰り際のお客様に「すごくおいしかった」と声をかけられた。そのたった一言で今までの苦労が吹っ飛びました。「パティシエになってよかった」――、心からそう思った最初の瞬間です。

日本のスイーツのレベルの高さを分かってもらいたい

期待は裏切らず、予想を超えるスイーツで
世界中の人たちを笑顔にしたい


スイーツを食べるとき、しかめっ面で食べる人はいませんよね。誰でもそのひとときはやさしく穏やかで幸せな気持ちになれるのではないでしょうか。お客様のショーケースに並ぶケーキを真剣に選んでいる姿や、ケーキを頬張りながらうれしそうに笑っている表情を見るのが僕は何よりうれしい。僕はスイーツを通してみんなにもっともっと笑顔になってもらいたい。
夢は大きく、スイーツを通じた世界平和です。

夢を実現するためには、おいしいものを作るのは当たり前。スイーツは僕の世界観を表現したいわば小さな宇宙です。ありきたりのものを提供するわけにはいきません。お客様の期待は裏切らない、でも予想を超えるスイーツ。「わあ、これすごいな」「ここまで考えて作っているのか」と思っていただけるそんなスイーツを作っています。だから粉一つ、バター一つといった素材から製法、パッケージのデザイン、店づくりまでこだわるのです。

「スイーツ」は英語でもフランス語でもない、日本で生まれた言葉です。日本のスイーツのレベルは非常に高く、本場パリにも負けません。そんなスイーツを日本の文化として定着させつつ、「KAWAII」が世界を席巻しているように、日本のスイーツを海外に向けて発信していきたい。そのためならどんな努力も惜しみません。僕は未来のパティシエのための学校をつくり、レシピを公開して自ら教えるほか、ワインで言えばソムリエのようなスイーツのスペシャリスト「スイーツコンシェルジュ」を育成しています。

スイーツを通じて世界平和の実現へ

大事なあの人にぜひ食べてほしい
食べてくれる誰かを想像しながら作る


いつも食べてくれる誰かを想像しながら心をこめてお菓子づくりをしています。「目の前のこの人のために作りたい」「大事なあの人にぜひ食べてほしい」――。そんな気持ちがすごく大切なんじゃないかと思うのです。

僕がここまで前を向いて進んでこられたのは、母親の存在が大きい。僕の祖父がつくった紅屋は、残念ながら僕が18歳のときに潰れてしまいました。そんな中、僕は家族の反対を押し切ってパティシエの道を選び、単身東京に出てきました。だからこそ「早く一人前になって、1日でも早く母親を楽にしてあげたい」「母親に僕が作ったお菓子を味わってもらいたい」という気持ちが常にあり、それが僕を突き動かす原動力になっていたと思います。

今はもう紅屋はありません。でも祖父の代から続く「おいしいお菓子でたくさんの人を笑顔にする」という志を大切にしています。

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